朝8時前、再び東城駅に降り立つ。これで何度目の東城になるのだろうか?多分今日が最後の登場であろう。駅前で待つタクシーのナンバープレートを見ると、福山ナンバーと広島ナンバーが混在している。ドライバーに尋ねると、東城町時代は福山ナンバーで、庄原に合併されてから登録した車は庄原のナンバーであった広島に変わってしまった、と教えてくれる。瀬戸内に流れる高梁川の流域の東城が日本海に流れる江の川の流域の庄原と一緒になるのは自然の流れに反しているが、合併時には相当揉めたようである。さもありなん。
8時18分発の「東城廃止代替等バス」と称するながったたらしい名前の備北交通バスに乗車。3日前の帰路に利用した「始終線」で途中の「岩屋口」バス停で下車。先日歩いた同じ帝釈川沿いの道を上流に向かう。駅からはこの代替バスの路線が4方向に向かい、1日各4便が1日4回数分おきに次から次に発車して行く。間違えさんなよ。
直ぐに中国道の帝釈川橋が現れ、今日は見慣れた景色とばかりさっさと下を通過するが、道端に「東城町名所11選 帝釈川橋」の道標が建っている。橋が名所になっている。
20分ばかりの歩きで落合に到着。先日は左の市道に向かったが今日は右の道に入る。分岐点には右側の市道が工事中で通行不可の看板が掛かっているが、先日市と施工業者に電話をし歩行可能との返事をもらっている。
直ぐの「馬渡橋」を越え、狭く薄暗い渓谷に入ると直ぐに立派な「帝釈峡馬渡遺跡」の石碑と解説板が有る。解説板を読むと、この川を馬渡川、先ほどの左側の白石川を帝釈川として説明している。逆やないか。かつては白石川の方を本流としていたようで、道路地図では白石川の方に帝釈川の名前が記入されている。県道の橋には馬渡川を帝釈川としている。東城町は白石派で、県は馬渡派、国が作成する地形図にはどちらの川にも川名が記入されず、静観の構えである。歩いてみると県の方が正解で長さ、流域面積とも馬渡が勝ち。
くねくねと曲がりくねった渓谷は狭く、民家も田畑も少ない。3km余りの歩きで出会った家は数軒。秋の花である「ケイトウ」が道端に咲いている。ほんまもんの鶏頭は子供の時に寝小便の防止のため食べさせられた苦い思い出がある。
少し開けた「鴨居」集落を過ぎると再び狭い渓谷となる。何度か曲がりくねった道を進むと前方に奇妙な形をした木橋が道路から田圃に向かって架けてある。近づいて見てみるとアーチとトラスを組み合わせた木製丸太の橋である。よくぞ考えたものである。誉めてとらす。更に進むと今度は丸太橋を補強するために斜張橋になっている。多分どちらも同一人物が考え架けた橋であろう。あっ晴れあっ晴れ!
「風防地」と書いて「たらんち」と読む集落に入る。地形図ではこの先渓谷沿いに細い道が有ることになっているが、今まで何度か騙されてきたので大きく迂回することになるが市道を進む。集落を過ぎると山道となり、くだんの予告板の工事現場を通り過ぎる。今日はすぐ際の沢の護岸工事中で市道は車も通れる状況である。ここまで1台の車とも出会わなかった。
坂道を登ると別の2車線の市道が現れ、緩い坂道をゆっくりと歩き峠を目指す。今朝も寒い朝であったが坂道を登ると汗が出てくる。道端には杉と桧の幼木が植えられ、早くもそれぞれの樹の特徴が現れている。西日本の山林の大半は杉と桧で占められ、今では遠くの樹でもどちらが杉か桧か直ぐに分かる。
地形図を見ると東城町の西部は、帝釈○○と言う大字名の地名が多く、今歩いている地区は帝釈山中である。他には宇山、未渡、始終があり、かつての帝釈村の名残が地名に残されている。庄原市に合併されるまでの東城町の町域は広く、遡行も同じ町内を幾日もかかって歩いてきた。
市道の坂道を登り峠近くに来ると帝釈山中地区の一軒一軒の家の名前が書かれた絵地図が立っている。これは親切な地図である。直ぐ近くには山中国司神社もあるようで、神社の鳥居から下に拝殿が見える。普通は拝殿は鳥居から上にあるものであるがここは逆になっている。
台地の上にやって来ると田が広がり、あちらこちらで稲刈りが行われている。黄色の目立つバス停は代替バスも運行が無理な小さな集落を結ぶ町の地域生活バスの停留所である。いくつもの路線が有るが、何れも週1日か2日の運行で1日に1往復か2往復のささやかなワゴン車路線である。
川に戻る途中道の二又では盆栽から抜け出て来たような姿形の良い楓の樹が佇んでいる。稲刈り中の人に道を尋ねると、左は途中から藪状になっているとのことで右側の市道を降りて行く。
100mほど下った所の小字名は扽田(どんでん)、ここで折り返せばどんでん返しとなるので川の左岸に沿って広くなった渓谷を北に進む。市道の傍らでも一家総出で稲刈りの真っ最中。主体は機械であるが機械の刈りにくい所は人が刈っている。直ぐ東側の低い山の裾には小さな道祖神が建ち、秋の花が添えられている。これぞ日本の山里の秋の風景である。
柳田地区に来ると狭くなった川が再び二方向から合流している。当方は西からの流れが帝釈川と判断していたが、北側からの流れに架かる橋の最初の親柱は「川鳥川」と書かれ、次の県道447号の橋では「帝釈川」とある。ここでも逆転判決である。地元はミクロな地名を川名とし、県はマクロな見地から川名を決めているようだ。どちらに進んでも帰路のバスは同じなので予定を変え北に向かう。
直ぐに県道57号と合流し、ここでも右東城、左西城の案内標識が現れる。水田が道の両側に続き空が広くなってくる。県道の西側に石州瓦が光る見事なお屋敷が現れる。門と塀の立派なこと!
最後の肛門を過ぎると広々とした高原がぱっと現れる。川鳥地区で帝釈川が地形図ではこの田圃の中から流れ出している。北側にはミス備後山と言ってもよいほどの端正な飯山(H=1,009m)が澄んだ秋空に佇んでいる。久しぶりの地形図上の源流に到達する。実際の川は東側の山裾から細い流れでやって来ている。それにしてもこの川は上流に向かうほど地形が緩やかになり、最後は美人が迎えてくれる。寅さんではないが帝釈天にお礼を言うことにする。
集落の中を進むと「川鳥コミニティーセンター前」なる長い名前のバス停が立派な建物を従えている。屋根のある座る所がここまで無かったので、渡りに舟とここで昼を摂り、帰路のバスまで1時間ほどあるので東城からの保田車庫行のバスに乗り、終点まで乗車する。本来は西側に向かう川を遡行し保田から帰路につく予定であったので、保田地区の状況も見ておくことにする。
バスは10分ほどで折り返し来た道を戻る。これで東城の代替4路線のバスは全て乗車したことになる。このバスが無ければ成羽川とその支流の遡行は叶わなかったであろう。帰路のバスの車窓からミス備後山に別れを告げ東城駅に向かう。今日も長―い帰路の道である。
本日の歩行距離:12.2km。調査した橋の数:28。
総歩行距離:6,308.6km。総調査橋数:10,056。
使用した1/25,000地形図:「帝釈峡」(高梁15号-2)、「小奴可」(高梁15号-1)