徳島-1.吉野川(その1)平成24年4月23日(月)快晴、黄砂
四国の二番目は四国三郎「吉野川」です。河口から高知県の最上流部まで延べ12日間の旅です。
7年ぶりに徳島駅に降り立つ。調査会在職中は月に1回、これから向かう吉野川の河口部に建設する新橋の建設技術アドバイザーとして業務打ち合わせに県庁を訪れていた。気分転換にかねてから温めていた四国一の大河、延長194km「吉野川」の遡行を開始することにし、その長さは半端じゃあー無いので2泊3日の旅を始める。1泊2日は何度かあったが2泊は初で、3日間天候が良い今日を決めた。
駅前のバスターミナルの徳島市営バス乗り場から河口付近に向かうバスに乗り込む。市営バスのはずなのに徳島バスがやって来た。運転手さんに聞くと、市営バスが少しずつ徳バスに振り替わっているとのことで、ここでも市営バスが縮小されつつある。徳島県は平成の合併以前は市が少ない県で4つしかなかった。その内の徳島、鳴門、小松島の3市に市営バスがある珍しい県である。
河口近くのバス停で下車し、何度も歩いた左岸(北側)の堤防の上の道を東に向かう。くだんの橋は既に完成しているようで、橋を潜り河口近くでUターンする。河口は幅が1,200mもあり、今までで最大であった高梁川を軽く上回り、西の横綱級であるが黄砂の影響で対岸は霞んでいる。
橋に上がる道を登り、警備員のおばさんに事情を話して橋際に立たせてもらう。10年掛かりの橋が明後日(25日)に開通するとのことで、丁度良い時に来たものだ。橋に招かれて遡行を開始したようなものだ。この橋は右岸側にある干潟の動物への影響を極力少なくするように日本初の形式を採用している。この橋(阿波しらさぎ橋)一見斜張橋のように見えるが、斜張橋が複数の索を塔から斜めに張り渡し桁に固定するのに対し、鳥への配慮から索は1グループとし、この索を一端の橋の桁端部から塔に引き上げ、中間桁の桁下に潜らせ中間桁からの荷重を2か所の支承で受け、反対側の塔に桁から上に上がり、もう一方の桁端部に繋ぐ形式である。かつて海外の橋梁調査に行った時に同種の橋をドイツの渓谷で見たことがある。
橋際の歩道にはスダチ君が橋の長さを知らせている。日本の川に架かる橋としては最長となる。
上流に歩きだし橋の見える所に2kmのポストが有ったのでカシャ。
現在最下流にある国道11号線の吉野川大橋は6車線、橋長1,137mの堂々たる橋であるが、ここの交通量は四国一で、徳島市内の交通混雑を解消するため環状道路が建設されつつあり、阿波しらさぎ橋はその最大の事業であった。橋の袂の河川名の看板には阿波踊りが入っている。徳島市のマンホールには阿波踊りがデザインされていると思っていたが、ごく普通の幾何模様でつまらないのでパスした。せっかくの観光資源を取り入れない市は乗り遅れますヨ。
1.5kmほど進むと今度は「吉野川橋」が迎えてくれる。17径間の曲弦ワーレントラスで、1,928年に完成した1,071mの橋で、戦前によくもこんな長い橋を架けたものである。橋の右岸側(南側)では塗装の塗替え工事中で、足場とシートに覆われている。
大きな川には普通高水敷の河原が広がっているものであるが、ここ吉野川は堤防の際まで水が迫り河川敷が無い。このため堤防上の歩道の無い県道を延々と歩かざるを得ない。この川では地元企業、団体、住民などが積極的に清掃作業を行っているようで、500mから800mごとにその団体名と区間が記された標識柱が建っている。お蔭で堤防の斜面や河川敷にはごみが少なく、兵庫県の川とは大違いである。この標識柱は通行車に無言の圧力をかけている。
今度は高徳線の吉野川橋梁(L=949m)が現れる。こちらは平行弦の連続トラスでこれも戦前に架けられ、今見てもとても戦前の作とは思えない。この川を歩いていると日本の最先端の橋の歴史を見ているようである。架橋前は両岸を鉄道連絡船が結んでいたようで、旅が大変な時代である。
今度は斜張橋を組み込んだ「四国三郎橋」が控える。橋の袂の花崗岩の親柱には徳島名産の藍の織物をイメージしたジャパンブルーが鮮やかに映える。吉野川左岸はかつて藍の大産地で徳島藩最大の産物で、山形藩の紅花と東西(南北)の産物の横綱である。直ぐ近くにその名も「藍住町」が有る。
徳島市と鳴門市の間には平成の合併何吹く風と狭い「松茂町」、「北島町」と「藍住町」がそのまま残った。次の「名田橋」までは4km余りと橋の間隔が長くなってくる。
徳島市から板野郡藍住町に入ると名田橋の手前から高水敷が現れ、これ幸いと土手から下に降りる。広い河原はグリーン一色で、藍住町が設けたパークゴルフ場が広がる。3コースを備えた本格的な物で、管理運営をなんと大手舗装会社が行っている。腰かける所も無い道路からゴルフ場のベンチに座り一休みする。コースの責任者であるIさんと暫し川の話をさせて頂く。名刺を頂くとパークゴルフ協会公認アドバイザーとある。ここにもアドバイザーがおられた。
吉野川には数多くの渡し場があったが、「名田橋」の手前にもここがかつての渡し場であったとする説明板が有った。
再び堤防上の県道に戻り堤外を見ると、藍生産と藍染で財を成したと思われる大きな屋敷と多くの蔵が並んでいる。堤防の外側に河川管理用の道が現れたので危険な県道から下の道にスイッチする。本来ならば管理路が土手の上で、県道は下に有るべきなのにここでは母屋を県道に捕られている。
川面の見えない高い土手に囲まれたつまらない管理路に癖癖しながら歩き、時折堤外に足を踏み入れる。木陰を求めて土手下の若宮神社に入ると、社殿から20mほど離れた所にお百度石が立っている。その後のいくつかの神社にも同種の石が有り、この地域はこの石でお茶を濁しているようだ。民家の庭先には早くも牡丹が咲き、高い気温と相まっていきなり初夏がやって来たようだ。
砂地の畑では馬が喜びそうな人参畑が広がり、丁度収穫の真っ最中。便利な機械を使って女性2名が運転手と選別手に別れてどんどん収穫して行く。子供の時は珍しかった西洋人参も今ではポピュラーな野菜となり、値段も手ごろで栄養満点。
川には江戸時代に徳島城の防護のため造られた第十堰が大きく斜めに川を横切っている。吉野川はここから下流は別の川であったが、この堰を作り、前の川を大規模に拡張して人口の大河川とした。元々の吉野川は堰の直ぐ上流にある第十樋門から流れ出し、旧吉野川と謂われ鳴門市の南端で紀伊水道に流れている。第十と言っても十番目の堰と言うのではなく、その位置の地名の第十新田から取った名前のようだ。樋門の上から旧吉野川を見ると、その幅の狭さにびっくりする。大規模な用水路のような風情である。
県道15号の「高瀬橋」のバス停に到着し、徳島駅行きバスに疲れた体を押し込んで徳島に向かう。今日はかねてから目を付けていた駅前のホテルを予約している。売りは天然温泉で、歩き疲れた足に優しいホテルである。シングルの予約でるが、広いツインの部屋をアテンドしてくれた。部屋から目の前に徳島駅の広場が広がっている。入浴後の夕食は何度か立ち寄ったことのある駅横の居酒屋「徳さん」に潜入。カウンター席で今や徳島のブランド鳥になった「阿波尾鶏」とカツオの塩タタキを生ビールで食す。快い疲れと温泉入浴後の体にはビールがうまい。
今日の歩行距離:18.5km。調査した橋の数:7。
累計歩行距離:1,496.2km。累計調査橋数:2,108。
使用した1/25,000地形図:「徳島」(徳島8号-4)、「板東」(徳島8号-3)、「大寺」(徳島12号-1)