高知-6.仁淀川(その3) 平成26年5月1日(木)快晴
2回目の仁淀川遡行に出かける。岡山から伊野まで利用可能な高知観光切符を購入したが、仁淀川では最大限活用できる。普通に切符を買えば伊野まで往復11,540円であるが、この切符は6,480円と半分近くになり助かる。
いつもの南風1号に乗るが3月のダイヤ改正で中村行きが高知までとなり、高知で中村行きあしずりに乗り換える。もっとも以前も高知駅での停車時間が長く出発時刻は同じで、伊野到着も変わらない。これでいいーのだ。
前回の折返し点に向かう北部バスまで時間が有るので駅前の国道33号を横断し、土佐電の電車を見に行く。丁度伊野駅前の次の終点伊野で折り返す電車が居た。高知ではこれをトデンと言っている。バスはトバスとは言わず、トデンバスと言う。
駅の待合室でお握り弁当を食べ40分ほどで長沢行き高知北部バスがやって来て乗車。吉野川の最後の川を終えて長沢から乗ったバスである。
先週の折返し点の柳瀬橋の直ぐ上流側のバス停で降り、上流に向かう。石見、柏原と国道194を進むと左岸側の大きな支流である「上八川川」の合流点に達する。川沿いの大きな集落の地名が上八川で、この方から流れて来る川なので上八川川となった下を噛むような川名である。国道脇の木々の間に見える合流点をカシャ。暫し上八川川沿いに北に向かうと、先ほど乗った北部交通バスに接続する越知行きの黒岩観光バスが最初の橋の上で待っている。直ぐに乗客無で出発して行く。これからしばらくは仁淀川流域をテリトリーとするこのバスのお世話になることになる。
三叉路を左に曲がりイクヨと別れ今度は県道18号にクルヨ。この県道は本流沿いに上流に向かい、流域最大の町「越知」の先で国道33号に繋ぐ道である。国道33号は大きく迂回する川沿いを避け、伊野からほぼ一直線に支流沿いに西の佐川経由で越知に向かっている。左岸側の県道を西に向かい、上八に架かる上八川口橋を渡る。渡れば伊野町から越知町に入る。直ぐに快晴の空と新緑の緑と濃いブルーの川が三位一体で迎えてくれる。四国の魅力はこの澄んだ豊富な水が流れる景色だと最近つくづく感じるようになった。世界遺産にして水の無い、きれいな川の無い国の人達に見せてやりたい。日本人の自然への接し方はこの川から来ているのだ。
道路と川面との間の平地に見慣れない低木が広がっている。近づいて良く見ると山椒の木である。木の芽の元の葉の間には小さな実もなっている。葉も実も花も日本料理には欠かせないわき役で、葉は今が旬の筍との相性は抜群で、花は醤油煮にすればごはんのお供に、実は粉にして香辛料にと利用が広がる。実と昆布を煮た塩昆布は子供の時から欠かせない物であった。
道は2車線の改良された区間と四国特有の1車線の狭い未改良の区間が混在する。交通量は少なく新緑の最高の季節を満喫しながら進む。古い擁壁の日当たりの悪い所では苔とその上に小さな葉を持った植物が覆っている。
2時間近く歩いてやっと橋が現れる。二つ目の沈下橋である片岡橋である。何とも言えない味わいのある景色である。片岡集落を過ぎると人家は無くなり、鶯などの小鳥の鳴き声だけの静かな景色となる。快晴ではあるが川上からはそよそよと涼しい風が時折吹き、吹く度に川面に小さな風波が西から東に走る。四万十川は今や有名人となり。メジャーな観光地になったが、ここは俗世の風が吹かずマイナーなままである。
川が大きく湾曲する根元をトンネルで短縮するため県道は二度川を渡る。最初の橋である鎌井田大橋の橋際に少し上流にある浅尾沈下橋の案内標識が建っている。かつての道は川に沿って大きく湾曲していたのだ。1kmで左岸側の鎌井田と右岸側の浅尾を繋ぐ沈下橋が現れる。
ここも絵になる風景である。山と川と橋とのバランスが良い。旧道から橋に向かう角には1日3便のバス待合小屋が有り、浅尾沈下橋の解説板も設置されている。県ご自慢の沈下橋である。暫し10分ほど休憩し、東京の孫に電話をする。四国中央部の川は分厚い山々に囲まれ右往左往しながら曲がりに曲がって海を目指している。吉野川も四万十川も源流からとんでもない方向に流れてしまっている。この複雑極まりない川と山が四国を全国の発展レベルから低いものにしてしまった。今後はこのハンデを逆手に取って行く必要がある。
沈下橋を対岸に渡り右岸側を鎌井田大橋に戻る。今いた鎌井田集落が名残惜しそうにこちらを見ている。橋の端には集落が似合う。浅尾集落の山側には急な坂道の神社の参道が上に延びている。丸い大きな石がゴロゴロと敷き並べられたユニークな参道である。地産地用の道である。
橋に戻り橋の下の川を見れば見事なグリーンブルーの鮮やかな色が目に沁みる。600mほどの長さの浅尾トンネルの路肩を歩く。トンネルの中は涼しい風が吹き抜け、眩しい陽も当たらずホットする。
根元のトンネルを抜けると直ぐに横畠橋となり、再び左岸側に向かう。橋の真ん中から下流側を見れば、川と山波の彼方にポツンと頭が飛び出た山が見える。丁度通りかかった地元のお年寄りに山の名を尋ねると、「黒森山」とおっしゃる。帰宅して地形図で確認すると、標高1,017mの独立峰である。翌日の歩きでもその特異な姿が目立っていた。
橋の親柱には沈下橋と横倉山とコスモスが3点セットで挿入されている。この横畠橋からは見えなかった横倉山が、国道33号に突き当たる直前に架かる「横倉橋」の上からはその姿が良く見えた。特異な姿の岩峰が空に突き出ている。一度見たら忘れられない山容である。この山は山伏の古くからの修験道場とのことで納得する。
川はここでこれ以上無いぐらいに大きく蛇行し、浅尾地区の蛇行をあざ笑うかのように曲がる。その曲がりの頂点に越知が有る。その大きく突き出た半島が横畑地区で、北、中、東、南地区と分かれ何故か西が無い。極楽西方浄土に取って置きにしてあるのだろうか?その東地区の仁井田五所神社の境内には高さ48m、樹齢450年の櫟樫(いちいかし)の樹が聳えている。東側の仁淀川を上から睥睨しているかのような姿である。
川側の神社を越えると山側の県道沿いに松山街道散策マップと街道の解説板が立っている。この川に突き出たような山波の尾根道が松山に向かう街道なのである。川沿いは曲がりくねって距離が長く、渓谷に道を作るのは困難で洪水の危険もあるため、敢えて山の尾根を選んだのであろう。山道の連続は大変な旅で、竜馬はこの道を何度も歩いたのだろう。昔の人は健脚でないと外の世界は見られなかったのである。
仁淀川はここ越知で大きく湾曲し、西から坂折川が南から柳瀬川が合流する川の交差点で広い河川敷が広がっている。短い今成トンネルを潜ると直ぐに再度の橋となる。横倉橋の親柱にも横倉山のレリーフが有り、その特異な姿が強調され、下側にはコスモスの里「越知」の花、コスモスも描かれている。橋の上からは南側の越知の街並みが見える。
橋を渡り終えると国道33号に突き当たる。伊野で別れた33号に再会する。右松山、左高知と書かれた標識が目立つ。これからはこの国道33号が遡行の友となる。今宵は越知の旅館に泊まるため国道を左に曲がり越知に向かう。直ぐに鮮やかな濃紺色の菖蒲が目の高さに並んで競っている。
横倉山の東端の山裾を南に向かうと立派な神社が現れる。山名と同じ神社名である。近くには横倉山への案内地図が建ち、山上には安徳天皇御陵参考地なる碑もあるようである。参考地とは聞き慣れない用語である。この地は壇ノ浦の合戦に敗れた平家の落人が住みついた地のようで、祖谷は有名であるがここは知らなかった。どちらも海から遠く離れた地で、どの海からも離れた山中である。地図を広げて確認すると、よくもぴったりと合うものである。鎌倉幕府から足利、徳川と何れも源姓を名乗って日本を支配してきたが、明治維新は西軍の平家の子孫が仇討したのかも知れない。
09.この地は平家落人が住みつき安徳天皇もご一緒にとも・・・
坂折川に架かる橋を渡り越知の街中に入る。直ぐにマンホールが現れ、親柱で見かけたコスモスが蓋一杯に描かれている。街中は周辺に大規模スーパーが無いのかシャッターの開いている商店が立ち並び活気がある。日本は2大大規模スーパーが地方の町を滅茶苦茶にしてしまった。
町の北側に橋が有るのでそちらに向かい、町役場、保育園、幼稚園、小学校、中学校と並ぶ区域を川に向かう。役場裏から西に聳える横倉山をカシャ。直ぐに中仁淀沈下橋に到着。橋脚は高く、これが沈下橋!他の沈下橋は水面から桁までが低いがここのは高い。他はフル沈であるがここのはハン沈である。陽は未だ高いが今宵の宿に向かう。
本日の歩行距離:16.2km。調査した橋の数:10。(支流を含む)
総歩行距離:7,099.7km。総調査橋数:10,779。
使用した1 /25,000地形図:「越知」(高知11号-4)、「大崎」(高知15号-2)