岡山-1.旭 川(その2) 平成26年9月21日(日)晴
朝夕の気温が下がり遡行の季節到来。今日も近場の旭川に向かう。7時40分、前回の打ち止め点の城下電停に降り立つ。交差点の地下通路を通り川に向かう。右岸側の広い堤防の上は公園になっており、付近の案内地図も有る。旭川は大きな中洲にある後楽園と張り出した烏城の区間で大きく湾曲している。日本三名園の他の園は川から離れた高台にあるが、後楽園は川の中洲にある。外周部は木々に覆われているが園内は広々とした空間が広がっている。解放感が後楽園の特徴である。百万石の兼六園、副将軍の偕楽園に大名の格では風下になっているが、実物は風上の風格が有る。
公園の片隅に烏城の石垣を運搬した時と同じ道具で運搬を再現した物が展示されている。石が重いため温羅は木材では無く石材が使用されたようだ。戦国末期の時代は数多くの城が日本中で築城されたが、よくもこれだけ数多くの城を作るだけの資力が有ったものだ。各戦国大名が金山、銀山、銅山の発掘に血眼になったお蔭なのかも知れない。
前回と同じ経路で川上に向かう。土手下の大きな石が並んだ歩きづらい高水敷を北に向かう。下流部の堰で広がった水面は鏡のように静かである。後楽園に向かう鶴見橋も水面にその姿を映している。
新鶴見橋を潜った所で歩きづらさから逃れるため土手の上に上がる。直ぐに河口部から10キロのポストが現れる。彼方の山陽本線の鉄橋を上り貨物列車がゆっくりと通過して行く。26両のコンテナ列車で全重量1,300トンである。数年前までは20両であった両数が機関車の高性能化、変電所の能力アップなどで長くなった。瀬戸大橋の開通前の試運転では1,000トンを対象としており、機関車にも載せてもらった。
山陽線の上流にある岡北大橋を右岸から左岸に向かう。前回歩いた時の三野からの堤防上を通る県道27号の道の狭さが怖かったので、今回は対岸の道を歩くことにした。
山陽新幹線のコンクリート橋の上をのぞみ号が音も無く通過して行く。これが300キロ運転を可能にしたのだ。対岸の8月に数度訪れた榊原心臓病院が見える古い堰の場所にやって来た。新幹線の車窓からいつも見えていた堰で、今日もか細い流れが中央部を越えている。この直ぐ上流に岡山市の三野浄水場が有り、そこで川の水の大半は吸収されてしまう。
直ぐに旭川の放水路の役割を持つ百間川の分流部に着く。百間川は常時は空堀で、洪水時に一段低く設定された堤防を越えて旭川からの水が百間川に流れる仕組みである。解説板によると江戸時代の陽明学者の熊沢番山が考案した方法とある。昔の偉い人は空海を始め土木にも精通していたのには驚く。土木屋は英語ではシビルエンジニアと言い、単語の意味合いから幅広い知識経験が必要である。
中原橋まで川から少し離れた道を進んで来たが、この数キロ先で道は途切れるので中原橋を渡り右岸に向かわざるを得ない。再び土手に上がって来ると秋の花と秋空が広がっている。右岸側の橋の下の広場はモーターボートの艇庫になっており、堰で広がった水面は格好の競艇場になっている。蛭子さんが見たら喜ぶだろう。
あの地獄のような狭い県道が歩道付きの4車線になっている。前回は大型車が擦れ違うのも困難だった土手の上の道が広がっている。この先2kmの大原橋から拡幅工事が進められここまでやって来たようだ。堤防上の4車線は珍しく、よくも国交省がOKしたものである。
安心して歩道を進み大原橋に着く。多径間のコンクリートアーチ橋で大半の車は直ぐ北側の新橋を利用しているが、県の北東部に向かう宇野バスはこの旧橋を通過している。幅、高さともギリギリで対向車が大型の場合は橋の彼方で待機していたことも有る。上高地に向かうかつての釜トンネルを彷彿させてくれる。
ここがバスの川沿いの最終地点なので今日はここまでとしていると、丁度橋を渡って宇野バスがやって来たので帰路につく。未だ11時である。土佐ならまだ行きのバスが目的地にも達してもいない時刻である。
今日の歩行距離:8.3km。再調査した橋の数:7。
総歩行距離:7,407.1km。総再調査橋数:16。
使用した1/25,000地形図:「岡山北部」(高梁4号-2)