愛媛-9.重信川(その1)前半 平成25年2月8日(金)晴れ時々曇り一時雪
朝10時5分、松山駅に降り立ち直ぐに伊予鉄大手町駅に向かう。県都松山の南を流れる一級河川「重信川」を踏破することにした。岡山と松山~内子間を利用できる松山観光切符を利用する。普通に切符を買えば特急自由席利用で片道6,120円であるが、この企画切符は3,900円と安くなる。
300mほど歩けば郊外線の高浜線の大手町駅に着く。ここはこの郊外線と市内線(路面電車)が交差する駅で、今や珍百景にランクイン出来るほどの場所である。松山市方面のホームの入口の駅で伊予鉄のカードを購入する。その名は単純明快に「いーカード」。電車、バス共通で運賃は1割引きである。琴電は電車とバスで割引率が異なっていたが、こちらは同じ割引率である。ホーム北端から交差点を渡る市内線のお馴染みの蜜柑色の電車を写真に撮る。間もなく15分ヘッドの郊外線の横河原行き電車もやってくる。両方の電車が映る写真が撮れて電車に乗り込む。東京府中時代に何度か乗った井の頭線の通称「ステンプラカー」がやって来た。懐かしー。松山は伊予鉄の松山市駅が中心部に在り、1極集中型の交通網で、電車もバスもここを中心に広がっているため、JR松山からのバス路線は少なく、一旦市駅に向かうのがベター。なにせJRよりも古く開業しているので老舗の貫録がある。岡山のバスは岡山駅と天満屋の二極型である。
1駅で市駅に着き今度は郊外線の郡中線に乗り変える。郊外線は市駅から高浜線は北北西方向に、横河原線は東に、郡中線は南南西にと見事に120度の間隔で散開している。3線とも市内線と同じく狭軌で京王電鉄電車の第二の働き場所となっている。琴電は標準軌で京急の第二の場所となっている。市駅はビルの中に在り伊予鉄高島屋が駅ビルに入店している。かつては伊予鉄そごうであったがそごうの経営破たんから今の高島屋に変わった。琴電瓦町駅も駅ビルの中に在り天満屋が入店し、かつては琴電そごうが入っていた。どちらもこの駅から複数の線が分岐しているのもそっくりで、四国一を争う二市は良く似ている。3駅目の余戸駅で下車、これで「ようご」と読む難読駅である。バスまで20分ほど有り、おなかも空いてきたので駅前の食堂に入り、うどんを注文する。店のおばさんに余戸の読みを尋ねると、ここら辺りは元余戸村と言い、村歌もあったと村歌の入った湯呑を見せてくれる。余戸駅にはバス接近システムも有り、さすが四国一の市である。循環ミニバスに乗り、重信川河口に一番近い大新田バス停で下車。南に直ぐに河口大橋が有り、11時15分遡行開始する。お馴染みの河川名標識には愛媛名物の蜜柑と坊ちゃんとマドンナが描かれ、ここが何処かが直ぐに分かる。昨日までの小春日和が一転し今日は小雪が舞っている。
橋を渡り対岸の松前町に入る。松前と言えば北海道が浮かぶがこちらは「まさきちょう」と読む。狭い町域に3万人の人口を抱え、何処とも合併せずに孤塁を守っている。岡山の早島町、香川の宇多津町、広島の府中町と良く似ている。
北北西の風が強く吹き堤防上は車も通るため、堤防から少し離れた道を東に向かう。暫くマンホールとはご無沙汰していたので、マンホール恋しやと目はマンホールを探すがこの辺りには無さそうである。マンをウーマンと言い間違えてはなりませんゾ。目指すものが無いので堤防に登ると、土手の下には2月の花である水仙が風に吹かれて咲いていた。土手の上には3kmの距離標識が有り、久しぶりの距離表から1級河川を実感する。
上空を西から飛来してきた飛行機が大きく低空で左にUターンし松山空港に降りて行く。空港は卓越風の方向である北西方向に滑走路が有り、西からの飛行機はこの辺りで方向を変え滑走路に向かう。
やがて出合橋に出合い、祖谷川に続いての出合である。第一の支流の「石手川」が合流する地点である。隣の伊予鉄郡中線の橋梁をかつての京王線の女王が2両編成で渡って行く。野暮ったい電車が多かった東京に初めて登場したスタイル抜群の電車で、正面の二枚の窓が側面にまで広がったパノラミックウインドーの名車に再会する。
国道56号の出合大橋を過ぎると石手川が対岸に見える。次はあの川にして道後温泉に立ち寄るかな。新しい「であい自転車道橋」の傍らには自歩道の案内地図が立ち、これから向かう横河原までこの道が続いているのを見て、車の心配なく歩けるようで安心する。東に向かう堤防の上に管理用道路、堤体内には自歩道が、堤体外の小段にも道が有り、モテモテの状態である。
強風吹きすさぶ中、ツバメらしき鳥が青空に乱舞している。2月にツバメとは?この地が気に入った越冬ツバメのようで、寒風の中を飛んでいる。
対岸には清掃工場、競輪場、武道館、野球場などの施設が固まっている。球場の名前は「坊ちゃん球場」。岡山(倉敷)は「マスカット球場」、香川は一時「オリーブ球場」と分かりやすい球場名が多く有る。
時折小雪が舞い散り、手元の小温度計を見れば氷点下を示している。予讃線鉄橋の彼方を見れば広々とした景色が展開し、冬の遡行の醍醐味が味わえる。鉄橋の手前で暫し橋を渡る列車を見るが、気動車も電車も1両の単行ばかりが続く。伊予鉄は2~3両ですぞ。
この川は大規模な扇状地の上を流れる川で、表面を流れる水は少なく、多くは伏流水となっている。堤防と堤防の間は300mも有るが水の流れの幅は10mも無い。大雨の時は伏流水が河床から顔を出し川幅一杯に流れる恐ろしい川である。冬空では遠くの山々がくっきりと見え、東の彼方の山は石鎚山系で、高峰ゆえに雲にお隠れになっている。前山が邪魔をしていないのがいいのだ。
県道の中川原橋まで来ると自歩道に県道番号の入った標識が立っている。自動車ヨ、これが目に入らないか?と言っているようだ。
やがて松山道が重信川を渡る地点に差しかかる。橋の直ぐ北側には松山インターがあり、松山以東は4車線であるが、ここから南は2車線で橋脚の下半分は完成形になっている。早く片割れが来ないかと待っているようだ。直ぐに松前町から砥部町域に入る。砥部と言えば一に砥部焼、二に動物園、三四が無くて五に三坂峠とくる。厚手の色白肌に青色の素朴な絵柄の陶器で、うどんなどの丼に合っている焼き物である。その砥部焼が沢から合流する橋の親柱にはめ込まれている。
高知と松山を結ぶ国道33号の重信大橋に近づくと正面に山頂を鉈で切削いだような山が迫ってくる。信越国境に有る苗場山を低くしたような山容である。帰宅してから地形図で調べると、等高線の形から直ぐに山の位置と名前が判明する。その名は「皿ケ嶺(H=1,271m)」。名は体を表すの言葉通りの山である。
土手下の道路に降りると有りました、久しぶりのマンホールが!砥部名産の焼物3点と蜜柑が。
南から流れてくる砥部川の合流点で道は少し砥部川に沿って南に向かい、県道23号線と出合い砥部川を渡る。橋を渡り直ぐの旧道を北に戻る。この旧道はかつて2度通った覚えがあり、最初は50年ほど前に国鉄バスで高知から松山まで仁淀川沿いに走り、三坂峠からここに下ってきた。その時の峠からの松山平野の景観は今でも鮮明に覚えている。川沿いに長く徐々に登って来た道がトンネルの無い分水嶺を越えると下り坂が延々と続く道で、狩勝峠の四国バージョンである。14名乗りの小型マイクロバスであるが、100円の特急料金を要する座席指定バスで、4時間半を要していた。今のコミバスよりも小さなバスで両県都を結んでいた。今では大回りになるが高速経由で2時間半である。
再び土手上の道を東に進む。川に架かる橋の間隔が長くなり、2~3kmほどの距離がある。拝志大橋で左岸から右岸に渡り、東温市に入り再び自歩道を歩く。土手には愛リバーサポーターの看板がここでも建っている。
やがて地形図には「龍沢泉」、「三ケ村泉」などと記載されていた泉の一つである「柳原泉」の案内板が目に入る。改修工事の看板もある。泉の由来説明板を読みその由来を知る。目の前に川があっても水は伏流しているので田に引けず、寛政年間に苦労して掘った泉である。掘割状の一番上手が泉のようで、川面よりも低い位置にある。他の泉はこの泉が掘られたことからこれに続けと掘られたようだ。
泉を過ぎ17kmの距離標識のある所から本流は方向を90度変える。支流の「表川」はそのまま東から流れてくる。こちらの方が本流らしく見えるが、取り舵(左側)一杯の方が我こそ本流なり!と叫んでいる。最近自動車のコマーシャルで面舵、取り舵はどちらの方向なのかを言っていた。
道を北に変針すると大きくて古い建設省と県との川の管理境界杭がドンと立っている。大きいことはいいことだ、なのかな?
幾分狭く傾斜がきつくなった川は、水が更に少なくなり、低い砂防堰堤が規則正しく200m~300mおきに続いている。陽もだいぶん傾きかけた頃に今日の打ち上げ点の横河原橋に到着する。
複雑なややこしい桁が続く橋を診て細い県道を西に向かい今宵のビジネスホテルに向かう。今日1日で2市2町を通過したのだ。
今日の歩行距離:20.5km。調査した橋の数:19。
総歩行距離:5,573.9km。総調査橋数:9,020。
使用した1/25,000地形図:「郡中」(松山6号-1)、「松山南部」(松山2号-3)、「伊予川内」(松山2号―1)