徳島-4. 那賀川(その3)平成25年12月16日(月)晴時々曇り
徳島の那賀川遡行を再開する。通い慣れた徳島駅に降り立ち15分後に駅前から発車する川口行きバス乗り場に向かう。バス乗り場では丹生谷方面行きと書かれ聞き慣れない地名であるが、後刻この地名の場所、範囲が判明する。1時間25分の乗車で前回の折返し点である那賀警察署前で下車。暫し新那賀町の中心の街中を歩くと町役場が四万十町と同様に新築中である。この那賀町は3町(鷲敷、相生、上那賀)2村(木頭、木沢)が合併した那賀川の流域と一致した大きな町で面積は大阪市の3倍もある。奥の深い流域の出口の端に新役場がある。町の西端から役場まで100キロ近くもあるのだ。
街並みが途切れると国道195号が川を渡る「丹生谷橋」が現れる。出たぞ丹生谷が!橋の親柱には鷲敷町の名前にちなんだ鷲の精密な像が羽ばたいている。親柱ベストスリーにノミネートできる出来栄えである。対岸の左岸側の橋際に丹生谷ロードマップなる地図が掛かっている。丹生谷とはこの川の中上流の全流域を指すようで、平成の大合併で生まれた那賀町と同じエリアである。その名からしてこの谷間にも水銀の産地が有ったのであろう。水銀の基になる辰砂は中央構造線に沿った地域に多く産出されたようで、この地域は少し構造線から離れていたが採取されたのであろう。
広場の絵地図の有る場所の反対側の上流側には「鷲敷ライン」なる解説板が立っている。ここから上位流は多くの名勝の瀬が続く渓谷と書かれている。川沿いに遊歩道も有るようだが当方は国道を進むことにする。
仁宇の集落を進むと左側の小さなお寺の片隅に石碑が建っている。文政2年に起こった仁宇谷一揆の記念碑とその解説板である。一揆の直後にはお咎めなしとして収拾した藩が2年後に首謀者2名を打ち首獄門にした経緯が彫られている。北朝鮮の先日の裁判即死刑執行を想い出す。今の日本では考えられない仕打ちである。先ほどは丹生谷と有ったが、ここの碑文では仁宇谷と書かれている。
大きく回り込むと細渕橋が見える。鷲敷ラインの解説文にあった細渕が見えるだろうと橋の半ばまで進み川を見る。流れの両側にはやや黒ずんだ岩が並び青い水との対比がなかなか良い。橋は両側に広い歩道を持った2車線の過度に贅沢な橋で、途中には川に迫り出した踊り場がある。やや低いがバンジージャンプに利用できそうな場所である。丁度船の舳のようなので素敵な女性を伴えばタイタニックのシーンも再現できる。
やがて旧鷲敷町から旧相生町に入る。相生と言う地名は全国各地に数多く有る。メジャーなのが兵庫県の相生市で、東京で単身赴任時に住んでいたのが板橋区相生町である。かつて北海道の北見には相生線も有った。縁起の良い言葉から至る所に使用されてきたようだ。次の梁橋が見える所まで来ると川の両側の岩はますます黒くなっている。四国名物の青石も好いがこの黒石も好いもんだ。
軽自動車がようよう通れるような幅の狭い梁橋を対岸に渡る。この先国道は湾曲する川の根元をショートカットしており、次の橋に向かうのは大変なので右岸側の町道を歩くことにした。橋の上から川を見下ろすと真っ青な水がこれぞ蒼と言うような色をしている。川底の黒石の色が混じるとこの色になるのだろう。
橋を渡った梁ノ上集落の外れの神社の石造りの鳥居と狛犬は苔むしている。歩道の無い国道は車が速度を落とさずにひっきりなしに通過するが、こちら側の町道は車も少なく安心して歩ける。
大きく湾曲した川の突端の橋を調べ町道に戻り、河岸段丘の上の狭い平地を進む。対岸側の国道は山腹にへばりついたように通過し、後から設置された歩道は方杖で支えられているのが見える。
長閑な初冬の道を南西に進めば川口橋が現れる。ここは南の日和佐町から流れてくる赤松川が合流する地点である。県道19号の橋を対岸に渡ると上流側に川口ダムと発電所が見える。ダムと発電所は徳島県が運営しており、徳島県は多くの県営発電所を持っている。
対岸の川口集落に入るとマンホールが現れる。絵柄は相生町の町花であった紫陽花である。鷲敷町にもマンホールは有ったが、絵柄は幾何模様の真ん中にWに字が入ったもので早稲田のように見えるのでパスしてきた。
国道沿いの徳島バス川口営業所を通過する。狭い屋根の無い車庫には徳島行きバスに交じって分社化された南部バスのバスが並んでいる。広い那賀町内はこの南部バスの最奥地区までの路線がある。これから先は頼りにしてまっせ。
ダムが近づき短い坂道を登る。ダムはあっけないほど低いダムで、川を分かつ岩場を挟んで二つのダムが並び間に発電所がある。落差は少ないが水量豊富なことから発電も出来るのだろう。裏側に廻るとダム湖は満水状態である。
ダムの高さが低いことからダム湖の幅は狭い。名前はあじさい湖とのことである。対岸の道に出来た新しい橋は、鋼とコンクリートの長所を組み合わせた複合構造のトラス橋のようで、複合構造の橋がご専門のK教授を想い出す。
やがて今宵の宿のある道の駅「もみじ川温泉」に着く。ここは道の駅に日帰り温泉とホテルが併設された駅である。駅本来の施設は狭く駅と言うよりも停留所の内容である。明日の歩く距離を減らすため足は未だ大丈夫なのでもう少し歩いてここまで戻ることにする。
陽が陰りだした国道を1kmほど歩き次の橋である「横石橋」に着く。橋際には大きな橋の建設経緯と緒元が彫られた石碑が建っている。ここにも有る。昭和56年完成の橋であるが、石碑は既に風化が進み読みづらい。橋の建設に当たっては地元住民も9百万円余りの負担金を出している。地元も応分の負担をしないと橋は架からなかったのだ。本四連絡橋も地元関係県と政令市が出資金の形で負担して実現したが、ルーツはここに有りそうである。
来た道を戻り道の駅に入る。宿の部屋からはあじさい湖と大きなアーチ橋が見える。対岸の道路と手前の国道とには若干の高低差が有るので橋は少し傾いている。アーチ橋が傾いて見えるのはいただけない。ダム建設に伴い架け替えられた橋であるが、これだけ大きな橋を引き継いだ町は困っているだろう。
本日の歩行距離:16.5km。調査した橋の数:8。
総歩行距離:6,599.0km。総調査橋数:10,320。
使用した1/25,000地形図:「阿井」(剣山9号-2)、「桜谷」(剣山10号-1)