徳島-1.吉野川(その2) 平成24424日(火)快晴、黄砂

今日も快晴でホテルの窓から早朝の駅前が明るい。6時半からのバイキング朝食会場に一番で入り、品数豊富な贅沢な食事を満喫する。7時半初のバスに乗るためバス停に来ると、市営バスのピンクの車体が止まっていた。ローズピンクの車体は珍しいのでカシャ。

image1 01.早朝の徳島駅前

image2 02.ピンクの徳島市営バス

昨日の折返し点でバスを降り潜水橋の高瀬橋に向かう。吉野川最初の沈下橋は長―い。こちらでは潜水橋と称しているようなので郷に入れば郷に従うことにする。1車線の道が長く、対向車は橋の端で待つ必要がある。これでも立派な県道15号線で、これから先にもいくつもの県道の潜水橋がある。上板町から石井町に川面を身近に感じつつ対岸の右岸(南側)に渡る。吉野川は川幅が広いのでおいそれと橋を渡るわけにはいかないが、一度は潜水橋も歩いておく必要がある。

image3 03.高瀬橋は長―い潜水橋

image4 04.これでもれっきとした県道

右岸の堤防の上に上がると、こちらの堤防上の県道には歩道が有るでないでがだー。昨日は馬鹿を見た思いである。橋の間隔が長く、次の西条大橋までは4km弱もある。昨日は風が強かったが今日は収まり、黄砂は相変わらずで10kmほどの視界である。

西条大橋の親柱には曾我廼家五九郎とレタスという奇妙な組み合わせが一緒になっている。曾我廼家は橋の南岸側の鴨島町(現:吉野川市)出身の戦前の喜劇俳優でレタスはこの辺りが産地のようだ。

image5 05.西条大橋は曾我廼家五九郎とレタス

堤防の上の景色の変化が少ない道をのんびりと雲雀のさえずりを聞きながら歩く。昨日から堤防の上からマンホールを探しているが見当たらず、この地域の川沿いには公共下水道はなさそうだ。

石井町から旧鴨島町(現吉野川市)に入る。対岸は旧土成町(現阿波市)で、平成の大合併でこの吉野川に沿って吉野川市、阿波市、美馬市、三好市と4つも市が誕生した。3つは郡名を、一つは川名を名乗っているが、全国的には川名が有名で他の三市は面白くないであろう。土手下では杉板を見事に並べて乾燥させていた。

西条大橋は昭和28年に地元の熱心な運動の結果完成した橋で、袂に大きな記念碑が建立されている。戦後の混乱期にも係わらずこのような長大橋を完成させたエネルギーは素晴らしい。

image6 06.見事に並んだ杉板の群れ

image7 07.阿波中央橋の傍らの大きな完成記念碑

更に4kmほど歩いて阿波中央橋に来ると北の方からお遍路さんが橋を歩いて来る。四国88か所の1番から10番までは川の北側の山裾に有るが、11番からは南側に移っている。このため10番から11番にはこの川を渡る必要がある。

中央橋を越えひたすら西に向かって歩く。西麻植駅近くの土手下に江川湧水源の看板が見えたので土手下に降りる。ここは日本名水100選にもなっている伏流水で、遍路さんの休憩所にも水汲み場がある。丁度お昼時なのでお握りを食し、名水をタダで飲ませてもらう。

image8 08.江川湧水源は名水100選

一服してから遡行を再開し堤防に再び上がる。この辺りには巨大な中洲「善人寺島」が広がり、南北の堤防の距離は実に2km以上も有り対岸は中州の樹木に隠れて見えない。

旧川島町に来ると2番目の潜水橋(川島橋)が現れる。この橋も県道で2号線と由緒正しき橋である。橋の隣にかつてあった粟島渡船の案内板があり、お遍路さんだけはタダで乗れたとある。橋を堤防の上から眺めていると丁度お遍路さんがこちらにやって来る。ここでも10番切幡寺から11番の藤井寺に向かうお遍路道になっている。橋から土手に上がった所に休憩所が有り、人一人が泊まるスペースもあり、お泊りは一日だけと断り書きがある。無賃宿泊も可能な遍路道である。

川島からは国道192号が堤防の下を並行に走り、暫し国道を下に見ながら歩き、今日の打ち止め.点の潜水橋の学島橋を診てからJR学駅に向かう。学駅から徳島行に乗りこむ。

今日は駅にあるJR四国のホテルに早めにチェクインする。

image9 09.お遍路さんは無料だった粟島渡船

image10 10.潜水橋の川島橋を渡るお遍路

image11 11.川島橋の袂の遍路休憩所

 

今日の歩行距離:17.0km。調査した橋の数:5。

累計歩行距離:1,513.2km。累計調査橋数:2,113。

使用した1/25,000地形図:「大寺」(徳島12号-1)、「市場」(徳島12号-3)、「川島」(徳島12号-4)

 

 徳島-1.吉野川(その3) 平成24425日(水)晴れ後曇り

靴の選択を間違えた結果、右足の親指に大きな豆が出来たので昨夜応急修理をしたが、足が痛むのをこらえて3日目の遡行に出発。コンビニで朝のお握りを買い徳島駅のベンチで食し、6時11分発の阿波池田行きに乗り込む。2両編成の列車に乗ったのは数名で発車。途中の駅から順次高校生が乗り込み座席はほぼ埋まってくる。6時台に通学するとは朝が早い。早朝練習でもあるのだろう。阿波川島駅のホームには八重桜と藤の花が咲き、花木の女王を競っている。

image12 01.阿波川島駅は八重桜と藤が競演

7時前に学駅で下車。この学駅の入場券は受験にご利益があり、なかなかの人気でかつての北海道の幸福駅と東西の人気駅である。駅名の元となった地名の説明板が駅の入口にデンと置いてある。この近くのお寺にかつて学識高い僧がおわし、僧侶に教えを乞い学を修めるため多くの人が集まったことから学となったとある。

image13 02.徳島線学駅

image14 03.学の地名の由来説明が駅に

今日も右岸側を歩くことにし、昨日の学島橋の直ぐ上流にある「阿波麻植(おえ)大橋」からスタートする。この橋も1,000mもある長い橋で、左岸側の端は中州の樹木に遮られて見えない。

旧川島町から旧山川町に入り、左前方に高くその姿が秀麗な山が現れる。地形図で確認すると高越山(H=1,133m)で、周囲を圧倒する高さと姿である。後で調べると阿波富士と称されているようで合点がいく。山に近づくほどにその姿は美しく、本流の右岸に注ぐ川田川の土手からがピカ一なのでカシャ。

川田川の本流合流部近くの橋(瀬詰橋)の親柱を見ると大正14年完成とある。100年近くよく頑張っている。末永くお元気で!

image15 04.秀麗な姿の高越山(H=1,133m)は阿波富士

image16 05.大正14年完成の瀬詰橋は未だ現役

マメの出来た足が痛いが、足をだましだましで歩を進める。川の中州が徐々に狭まり対岸が見えるようになり、やがて川は急にその幅を狭める。高越山から北に延びて来た山稜が川に迫り、対岸の河岸段丘も川に迫り、岩津地区でその幅は100mたらずに急減する。川の流量はここの断面で決まってしまいそうだ。

土手は無くなり国道も徳島線も全て川ぎりぎりに迫り、呉越同舟でこの難所にさしかかる。徳島線は平野部のみを走る線路であるが、唯一ここに短いトンネルを掘らざるを得ない地形狭隘な所である。この最も狭まった所に斜張橋の岩津橋がある。狭い断面のため川は深く流れも早く、川中に橋脚を建てるのは困難なため川を一気に渡る斜張橋が導入されたと考える。こういう所では斜張橋がその威力を発揮する。

image17 06.岩津地区で地形は一気に狭隘に

image18 07.たった1径間で天下の吉野川を渡る岩津橋

歩道の無い国道を歩き、再び川幅が広くなった所で河川管理の出張所が「鴨島」から「貞光」に変わり、ここが川の下流から中流に入る変更点になると川の様子から判断する。

吉野川市から美馬市穴吹町に入り、右岸側の大きな支流「穴吹川」が合流する。この川は四国第二の高峰「剣山」の北面から流れ出す川で、国道から別れる道の案内板にも剣山の表記がある。剣山に登ったのは20年以上前になるが、この山の山頂近くの見ノ越までバスがあり、比較的簡単に山頂に立てる。

image19 08.穴吹川を遡れば剣山が

穴吹川に架かる「穴吹新橋」を渡ると有った!有った!旧穴吹町のマンホールが。やっと恋人に巡り会えたような気持ちでカシャ。直ぐ近くに美馬市市役所があったので立ち寄り、絵柄の説明を求めたが入口の窓口ではよく知らないようだ。何かの花が描かれているので、穴吹町の町花は何かと尋ねると、百日紅(さるすべり)とのことなので、この花は百日紅としておく。

image20 09.旧穴吹町は穴吹川と百日紅の花

「穴吹橋」の袂には旧穴吹橋を解説した記念碑と模型があり、旧橋がいかに地域にとって大事な橋だったかが分かる。今回の遡行は限の良いここまでとし、駅近くのセルフうどんの店に入り久しぶりのうどんを食す。穴吹駅発12時08分の列車に乗るつもりで駅に来ると、春のダイヤ改正で目指す列車は無くなり、止む無く41分発の特急「剣山」に510円の出費で乗り込み阿波池田に向かう。この特急、7往復も有り徳島線74kmの25駅中の9駅に停車する特急というよりは快速みたいな列車である。阿波池田で直ぐにやってくる岡山行き南風に乗り換え帰路につく。

image21 10.初代穴吹橋を偲ぶ石碑と模型

image22 11.穴吹駅も三角屋根、うだつが無いよ

 

今日の歩行距離:14.5km。調査した橋の数:5.

累計歩行距離:1,527.7km。累計調査橋数:2,118。

使用した1/25,000地形図:「川島」(徳島12号-4)、「脇町」(徳島16号-2)