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日本あちこち河川遡行記(第2回)

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岡山-1.旭 川(その1) 平成26年9月15日(月)晴

(はじめに)

第2回からは岡山県の河川遡行の2回目の主な物を適宜掲載する予定で、先ずは岡山県の3大河川の一つである「旭川」本流の河口から出発。

川の徒歩遡行と橋の調査を始めて5年半。土佐の山奥の歩きには多大の金がかかり、そう何度も出かけられないので健康保持と一度調べた橋のその後の状況を診るため、振り出しに戻り岡山の川を歩くことにした。最初に歩き始めた旭川から始め、日帰り可能な範囲まで歩くことにした。

岡山駅から旭川の河口付近を通る新岡山港行き岡電バスに乗車。河口近くの三蟠南バス停に降り立ち、勝手知ったるゼロキロポストの有る河口に向かう。秋空に海、川、山はくっきりと見分けがつく。西の彼方には児島湖の締切堤防と水門が、東には児島湾を横切る大橋が良く見える。

image1 01.河口の西には児島湖の締切堤が

image2 02.児島湾に架かる児島湾大橋

漁港を廻り込むとゼロキロポストが現れる。ポストは変わっていないが周囲には真っ白なコンクリートの堤防が完成し、5年前とは様子が異なる。高潮被害を防ぐため堤防の嵩上工事を最近したようである。

image3 03.旭川のゼロキロポスト

image4  04.真っ新な堤防が出来ている

image5 05.堤防工事の解説板が

前回は遡行記を書くとは思っていなかったので写真をこまめに摂ることにして川の左岸を上流に向かう。直ぐに前回も立ち寄った明治天皇下船記念碑に立ち寄る。直ぐ横の三蟠港の跡の碑文にはこの河口港の歴史が彫り込まれている。明治初期は鉄道網が未成で明治天皇は船で岡山行幸をされ、この三蟠港で下船され岡山市街に向かわれたようである。その後宇野線が完成するまでここから高松まで連絡船が就航していたとある。四国に渡るのは1日仕事である。

image6 06.明治天皇の行幸はここまで船で

 

image7 07.かつてはここが岡山の玄関口

image8 08.三蟠港から高松まで船が通っていた

今まであちらこちらの川を歩いてきたが、この旭川の川幅は狭い。吉野川を横砂とすれば、淀川は大関、四万十川、仁淀川、吉井川、高梁川は関脇、太田川、那賀川、肱川は小結、旭川は前頭上位と言う所である。旭川には直ぐ東側に洪水時のバイパスとしての百間川が有るのでこの幅で足りるのであろう。両者合わせて小結と言う所である。

見事に剪定された樹に挟まれたお社が土手の傍にある。こんな氏子に囲まれて神様も幸せだな。

image9 09.お社は見事な樹に挟まれて

河口から2kmほどで最上流部に架かる岡南(こうなん)大橋に来る。前回の最初はこの橋の右岸側の福島バス停からこの橋に来て右岸側を上流に向かった。今回はゼロから歩きだし、左岸側を歩くことにする。この岡南大橋はかつて岡山県道路公社が建設し、有料道路として運営されたが今は無料となっている。この橋以外にも先ほどの児島湾大橋、片上湾大橋、高梁川の河口部の水島大橋なども県公社が建設、運営していた。瀬戸大橋開通前後は橋建設のラッシュであった。

image10 10.旭川の河口近くに架かる岡南大橋

堤防上の道路の道幅が狭く、交通量も増えてきたが、堤外側の一段低い位置に歩道が有るのでこれ幸いと歩道を北に向かう。直ぐ東側には立派な幅広の道路が有るのだが、堤防上の道路には信号が無いのでこちらに入り込んでくる。近くに道が有るのなら堤防上は車の通行を制限すべきである。堤防の内側にはまともな歩道も無いのでなおさらである。

image11 11.堤防の一段下の歩道を歩く

岡南大橋から2kmほど歩いた国道2号線の旭川大橋を越えると、次の桜橋までは3kmもある。両橋が完成してまだ40年、完成前は河口部の7kmは全く橋が無い状況であった。

岡山市街地に入ると橋も多くなり、桜橋、新京橋、京橋と時代を感じさせる橋名の橋が続く。やがて旭川は三つの流れに別れ、二つの中洲が川を分けている。ここまでは左岸側を歩いて来たが右岸側に三つの橋、小橋、中橋、京橋と渡る。かつては岡山唯一の橋であったこの三つの橋の上を岡山電気軌道(略して岡電)がゴトゴトと渡って行く。この岡電、同じ絵柄の電車は無く、全て異なる電車でその違いを数分おきに見るのも楽しい。

image12 12.京橋を渡る岡電

京橋の右岸側の親柱には大きく橋名が彫られ、傍らには土木遺産の銘板も添えられている。何世代にも架け替えられた橋は、鋼橋であるが木橋時代の構造を踏襲した姿をしている。

image13 13.京橋は歴史的建造物

image14 14.木橋の名残が残る橋

右岸側は川沿いに公園として整備され、かつての橋の橋脚の一部が保存展示されている。脚本体は石製で繋ぎ材は木製である。直ぐ傍には京橋の歴史、構造の解説板もある。京橋に対する岡山の思い入れは半端ではない。

image15 15.かつての橋脚が残されている

image16 16.京橋の歴史の解説

橋から北側は岡山城の城郭区域で、この城郭の解説が地図入りで掲げられている。天守閣の有る小山が旭川に迫り出し、旭川は大きく湾曲している。この小山から岡山の名前が生じたと記憶している。天守は天然の要害で見晴らしは最高だろう。

堰に併設された橋を渡り再び左岸側に向かう。下流側を見れば二つの中洲を繋ぐ三つの橋が見える。上流側には岡山県庁も現れ、彼方には岡山城も見える。城と県庁は目と鼻の距離にある。城下町に県庁の有る市は数多くある。城の近くに県庁などが有るのは、かつての東京(都庁が有楽町時代)、仙台、静岡、名古屋、津、和歌山、大阪、鳥取、松江、松山、高知、福岡、熊本といとまがないくらい多くある。知事になれば1県の殿様になった気分であろう。知事権限は首相以上なので知事の多選は良くないことである。

image17 17.岡山城址の解説

image18 18.旭川は京橋付近で三つの流れに別れる

image19 19.岡山城と県庁は目と鼻の距離に

左岸側の土手に桜並木が続く道を北に進む。県庁の東側に架かる相生橋の桁には蔦が繁茂し、見た目には風情があるが余り感心しない。

image20 20.桁に蔦が繁茂

相生橋を越えると川は二手に分かれ、中洲は後楽園となっている。園の外周部は高い木々に囲まれ園の中は見えない。直ぐ西で天守閣が園を睥睨している。小高い丘に聳える天守閣は裾を濃い木々の集団に囲まれ名城の雰囲気を醸している。

image21 21.川を挟んで岡山城と後楽園は対峙

image22 22.この方向から見る烏城が最高

相生橋を渡り再び右岸側に戻る。航空母艦を思わせる細長い県庁が周囲を圧倒している。児島調査事務所時代は企画部に、開通前の県警との協議では西別館に何度も訪れた県庁である。県庁と天守閣との間は300m余りで、多分数多く有る県庁の中で天守との距離は最短であろう。飛ばし屋ならドライバーで届く距離である。

image23 23.岡山県庁は立地条件最高

右岸側の狭い道を進むと迫り出した小山と川の間の窮屈な道となる。天守閣の石垣が迫り出し頭上に天守がある。これでは攻撃は無理である。北側に進むと天守の全貌が見える。普通の天守の平面は正方形であるが、この城は長方形で長辺側は立派な姿をしているが、短辺側は薄っぺらな貧相な姿である。城は黒色の板壁に覆われ、その間に白色の漆喰と金色のシャチなどが隅々に立ち、三色の対比が際立つ。黒い外装から烏城と言われ、姫路城とは正反対である。

image24 24.川に迫り出したような烏城

image25 25.黒と白と金色の対比が際立つ

キリの良い城下で今日の打ち止めとして城下電停から岡電に乗り岡山駅に向かう。

本日の歩行距離:10.5km。再調査した橋の数:9。

総歩行距離:7,398.8km。

使用した1/25,000地形図:「岡山南部」(岡山及丸亀1号-1)

 

 

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