高知2-7.梼原川(その4)平成26年5月29日(木)晴れ 

先週の東部戦線の宇治川から西部戦線の梼原川に戻る。通い慣れた須崎からのバスに揺られて梼原に向かう。今日のバスは途中の峠までの道を旧道経由で進む。谷底から狭く曲がりくねった道を登って行く。かつての四国の道はみんなこのような過酷な道であった。新荘川の最上流部の谷底から山の上の方まで茶畑が延々と延びている。段々畑の典型的な姿である。茶畑の間を登り、分水嶺のトンネルの手前で国道197に合流する。まるで高速道路に入った感じである。

image1 01.山の上から谷底まで続く茶畑

12時10分、1時間20分の乗車で梼原に到着。国道に面したパチンコ屋と同じ建物の一角にバスセンター?はある。これから向かう先日の折返し点方向に行く松原行き、明後日に向かう太田戸行き、そして丸太行きと1日に数便しかないバスが3台も一斉にこの須崎からの便を受けて12時35分に発車する。小型バス3台の一斉発車は壮観である。

image2 02.これが高知高陵交通バスの全路線

image3 03.連合艦隊が勢揃い

先日の折返し点の少し上流の佐渡まで松原行きに乗る。もちろん貸切状態である。高知、須崎、梼原とわずかな待ち合わせ時間で乗り継げたのが梼原川とその支流遡行の決め手となった。

30分ほどで佐渡(さわたり)に着き、上流に向けて歩きを開始する。県道25号沿いの民家の石垣の間から、下半分が大きな葉、上半分にはラッパ状の薄紫色の花が縦に並んだ植物が顔を出している。なかなかの姿である。やがて梼原川二番目のダム、初瀬ダムが現れる。左岸側に魚道が設けられた大きくは無いダムである。

image4 04.石垣の間から大きな植物が

image5 05.梼原川二番目の初瀬ダム

ダム湖は直ぐに尽き清らかな流れが今日も見える。土佐の川はつくづく良いと思う。仲久保の沈下橋が全く見えない所に橋の解説柱が立っている。かつては眼前の樹が小さかったのかも知れない。

image6 06.今日も川は清らかに流る

image7 07.橋の見えない所に解説が

未改良の1車線の区間と改良された歩道付き2車線の県道が交互に続く。毎年少しずつの予算で改良が進められ、地元の小規模土木業者にはこれが命の綱であろう。改良済み区間に在る竣工銘板にはどこでもその地区の業者名が入っている。

川井地区に架かる橋は3代目のようで、直ぐ下流側には2代目の旧橋が、上流側には初代の橋の基礎だけが頭を出している。曲がりくねった川の根元をトンネルで短絡したのに伴い3代目が出現した。橋を越え真っ直ぐな道を北に向かうと、大きく蛇行する川沿いの県道は嫌われ、国道197号に短絡するトンネルのルートが県道となった。当方は嫌われた方の川沿いの旧道を進む。

image8 08.親子三代の橋の跡

image9 09.右に折れる旧道に向かう

狭く状態の芳しくない道を進むと、対岸の河原に大きく穴の空いた岩が口をこちらに向けている。川を流れて来た固い石がこの穴の中を無数に回転して出来た穴である。甌穴と言われているがこの方向の穴は珍しい。

image10 10.見御世に穴が空けられた岩

三番目のダムである山口ダムはその高さが低く、大型の堰である。四万十川本流にはダムが無いのが売りになっているが、窪川の手前にこの山口ダムよりも規模も高さも大きな物が有るがこれをダムとは言わず堰と言っている。今更ダムとは言えないのであろう。

image11 11.山口ダムはダムでは無く堰だ

大きく回り込み進むと明日歩く予定の四万川川が合流する。直ぐ上流には川口の沈下橋が見える。

image12 12.四万川川との合流点の先に沈下橋が

川口地区で国道197に再び出会う。俄然交通量の増えた国道の歩道を北に進む。梼原はかつて土佐のチベットと言われた奥地にあり、道路状況も悪く僻地であった。今は全線改良された国道197号が短時間で須崎とを結んでいる。伊予との国境が近く、伊予の影響を濃く受けている。三嶋神社、石鎚神社など伊予発祥の神社が多く見受けられる。地図で比較すると、高知までの距離よりも松山の方が近い。長浜は更に近く、竜馬が脱藩に梼原経由長浜に向かった理由が分かったような気がする。

梼原のバスセンターを越え国道440号の街中に入る。そこは今までの遡行で見たことの無い異次元の世界が広がっている。過疎と廃屋の並ぶ集落を見て来た目を疑う。広い道と歩道、更に駐車スペースを確保した街並みは全て新しい和風建築である。内子や大洲のような伝統建築保存地区とは全く異なる新しい景観である。見事な区画整理事業と街造りの成果である。町に有り余る木材を有効に使用しており、今後の山間地域の生き残りのリーダーを見た。

image13 13.過疎地域に忽然と現れた異次元の世界

早速現れたマンホールの蓋の絵柄は芝居小屋のようである。町民に尋ねると、「すぐそこの梼原座ですよ」とのことで道を折れ役場の方に向かう。直ぐに左には大きな木造風の役場、右に芝居小屋が建っている。この小屋の再生が街並み改造のきっかけになったことを後刻知る。その記念がこの蓋の絵である。足元を見て忘れないようにしているのだ。

image14 14.梼原町の絵柄は芝居小屋

image15 15.本物はこれだ

小屋の横の歴史資料館に入り梼原の歴史、特徴を知る。65歳以上は半額で竜馬パスを見せるとなんと入館料は50円である。あちこちに見られる脱藩の道の痕跡がここにも有り、この道を尋ねるガイド付きツアーもあるようだ。入口には君が代に謳われているさざれ石の本物が鎮座している。細分化された石灰岩が再度固まった岩で、多くの小石(国民)が一緒になり団結するようにとの思いが国歌に込められている。

image16 16.ここでも脱藩の道の半ばだ

image17 17.君が代の「さざれ石の・・」の石がこれだ

街中の橋に向かう。先ず市街地の中心部にある歩道専用の六根の橋。町内産の木を使用した2径間のトラス風の桁橋である。太い桁も斜材も床も全て木である。和風建築の家々とのバランスが良い。

image18 18.町内産の木を使った橋

image19 19.桁も床も全て木だ

次に200mほど上流に架かる梼原橋に向かう。こちらは自動車も通行可能な大規模な木製アーチ橋である。アーチ部材や横桁、縦桁は木材を縦横交互に組み合わせた集合補強材が使用されている。縦桁とアーチを繋ぐ鋼線と部材を繋ぐボルト類を除けば全て木材である。いささか古武士を思わせる姿であるが木材でもこの大きさの橋が作れるのである。NHK放映の里山資本主義の成果の一端がここには有る。

image20 20.こちらは車も通れる木橋アーチ

image21 21.やるやんかー。梼原は

国道の方に戻り今宵の宿に向かう。有名な建築家が設計した建物は、道の駅ならぬ「町の駅」とホテルが同居したユニークな姿である。国道側の面には茅葺屋根のイメージの茅が添えられている。宿は先日帰路に立ち寄った日帰り温泉やその横のホテル(本館)、レストランと同じ町の商工会が運営するホテル(別館)で、2km東の温泉まで送迎ワゴン車が有るのでこれを利用して温泉に向かう。今日、明日はこの温泉三昧を満喫できる。豪華やなー。

image22 22.今宵の宿は町の駅の中に

 

本日の歩行距離:12.3km。調査した橋の数:17。

総歩行距離:7,204.4km。総調査橋数:10,877。

使用した1/25,000地形図:「梼原」(松山4号-2)